10月生まれのひとりっ子。東京生まれ下町育ち。
共働きの両親のもとに生まれ、生後42日目から保育園へ。
塗り絵や折り紙、工作をして過ごす。
母がコーヒーが好きなので、小さい頃の夢はコーヒー屋さん。


小学校1年生から3年生まで通った学童がまずは宿題をする場所だったので、
勉強は誰かに聞いたら教えてくれる人が沢山いる環境で育つ。
一輪車が好きで、よく乗って遊んでいた。
一輪車で花いちもんめをして最後まで残ったの今でもちょっと自慢。


高校2年生の時に、進路希望の紙が配られて将来何になりたいか悩む。
手に職をつけて、全国どこでも働ける仕事が良いと思って、看護師と書いて提出。
看護学校の予備校で、担任の先生との面接の時に何で看護師になりたいか聞かれる。

「どこでも働けて、手に職があれば自分でなんとか出来そうなことが増えるから」
と答えたら笑って素晴らしいと言ってくれた。

誰かの役に立ちたいからっていう理由でなりたい人は多いけど、どんな職業も誰かの役に立ってる。

医療職だけが人の役に立つと思ってる人は向いてないと言われ、高校の授業後に予備校に通う生活が始まる。

予備校の国語の先生に看護師に向いてる人はどんな人ですかと質問をした時
「いつも通る道で昨日はなかった今日咲いている花に気がつける人」
という言葉が今でも忘れられない。


高校3年生の時に、食事が食べられなくなり体重が減少(拒食症とは違います)し大学病院で検査をする日々。
その時の担当の看護師さんが説明が丁寧で、
胃カメラの検査の時もずっと手を握っていてくれた。
それが嬉しくて、この病院で働けたらいいなと思う。

 

看護学校に合格し、実技や実習の毎日を過ごす。
実習先の患者さんたちから、ありがとうの手紙や葉書をいただき自分が誰かに対してできることがあるんだと知って嬉しくなる。


高校3年生の時に検査をした大学病院に就職。
私を含めて7人いた同期は2年目の時には3人に。
同期の中でもペースが遅く、仕事を覚えるのが一番遅かった。
患者さんたちや周りの先輩からは、私が一番最初に辞めると言われていたが最後まで働いたのは私。

仕事で失敗すると、先輩から
「そんなに使えないんだから、せめて目を見えない人に移植したらいいじゃない」など言われながら働く。

この時、「絶対にこんな人にはならない」
と思いながらロッカーで違う病棟の先輩に話を聞いてもらっていた。

当時着替えをするロッカーが私の居場所で、違う病棟の看護師の人がよく話しかけてくれた。

そのうちロッカーにいるほとんどの人と話すようになり、いろんな病棟に頼れる先輩ができる。


患者さんにはじめてした採血で、「今までの中でアナタが一番上手」と言われ、
看護技術をもっと頑張ろうと思う。


移植したらと言った先輩と夜勤の時に、
患者さんが自分の病気のことでずっと泣いていて
どうしたらいいか分からず、隣でただ話を聞いてる間に時間が過ぎる。

先輩からはこの忙しい時に何考えてるのと言われたが、
もう一人の私の教育担当の先輩が
「あんなに素敵な看護を否定しないでください」
と言ってくれる。

結局私はその患者さんに対して何も出来なかったと思いながら10年後に違う病棟で再会。

私の名前も顔も覚えていてくれて、
あの時ずっと話を聞いてくれたことが嬉しくて
赤ちゃんを育てていけると思ったと教えてもらう。


沢山の患者さんとの出会いや関わりの中で、看とりの経験も数えきれない。
もしかしたら私が最期に言葉を交わす人かもしれない、
関わることができることができるのかもしれないと思いながら仕事をするようになる。


2年以上関わり続け亡くなった患者さんのご家族から、
「祥子ちゃんがいてくれたからあの人も私たちも生きることが楽しかった」
と言っていただけた時に看護の可能性を実感する。


父の死をきっかけに12年働いた大学病院を退職。
その後は老人ホームや訪問看護などの仕事を経験する。病棟以外の職場を経験し、看護師としていろんな経験を重ねていく。

看護、介護の現場を愛しているから。

あなたの痛み、悩みに寄り添っていきたい。

休職期間中にカメラを習い景色や人を撮ることが好きになる。
折り紙を折ることや書き心地の良いペンを探すのが好き。


今年で看護師17年目。患者さんだけではなく、介護をしている方の葛藤や
新人の看護師の方の自分は看護師に向いていないのでないか
という悩みを聞くことも増えた。

その人達の気持ちが少しでも軽くなればいいなと思う。