あなたとの最期の約束を叶える日

仕事の帰り道、時々ふとあの人を思い出す。
もうこっちでは会えない、厳しくて優しいあの人を。

「ねえ、望月さん。私が死んだらあなたが私にお化粧してね」
点滴を交換している私の手が止まる。
え?
椿さんに?
私が?
椿さんの顔をじっと見つめてから、
「違う望月さんですよね?」
って聞いたら、この病棟に望月って苗字はあなただけでしょと嗜められた。

椿さんはいつでも身なりを綺麗にしている。爪は整っているし、脱いだスリッパはいつも敬礼しているかのように整列している。

椿さんは、言いたいことをはっきり言う。
気持ちがいいくらいに、はっきり言う。

食事の配膳の時、お盆の向きが違えば

「向きを間違えて、人にに出すなんて恥ずかしいわよ」

消灯の時、病室のドアを片手で閉めると
「所作は美しく!両手で閉めなさい!」

いつもそうやっていろんなことを教えてくれた。
自分の気持ちをそこまで伝えてくれる患者さんは珍しかった。

消灯前、椿さんの背中にボディクリームを塗るのが恒例だった。
椿さんが私の手をみる。

「ガサガサですよね。アルコール消毒でも手洗いでも荒れちゃって。すいません」
手も綺麗にしなくちゃダメよと言われるかなと思ったら、椿さんが私の手をとった。

「恥ずかしくないわよ。あなたの手。いろんな人のことを看てきた手でしょ。誰かが辛い時にその人の背中をさすったり、誰かが嬉しい時は一緒に手を握って喜んできたんでしょ。素敵じゃない」

そう言いながら、私の手に椿さんがハンドクリームを塗ってくれた。
その日の夜勤の間中、自分の手が素敵に見えたのは椿さんが魔法をかけてくれたからだろう。

椿さんは少しずつベッドで横になる時間が長くなった。
いつも綺麗に整えられていた爪は、長くなってきていたし。
私たち看護師が背中にだけ塗っていたボディクリームは、腕や足に塗るのも私たちの役目に変わった。

椿さんの爪をやすりで整えていたら、テーブルに置いてある口紅が目に入った。
ああ、最初の頃は口紅を毎日塗っていたんだよな。
顔色の確認が出来ないから、お化粧は控えてくださいってお願いして。

「望月さんはお化粧好き?」
椿さんが私に聞く。
ちょっと考える。好きか嫌いか。
どちらかと言うとめんどくさいなと思うことのが多い。
夜勤の時はずっとお化粧をした状態だし。
電車に乗ると、他の女性はもっと綺麗に整っているし、キラキラしている。
そんなことを伝えたら、
「めんどくさいなって気持ちでお化粧したら、めんどくさい人の顔になるわよ。可愛い顔をもっと可愛くできるのは自分だけなんだから。最高に愛しいって思いながらお化粧しなさい。自分のことを大切に扱えたら、他人も自分のこと大切に扱ってくれるわよ」

椿さんらしいな。

椿さんが亡くなった日。私が担当だった。
物理的にいえば話すことは出来なかったけれど、少しずつ波形が変わる心電図は、厳しくて優しくて穏やかな椿さんの挨拶みたいだった。

何で私に最期のお化粧をって言ってくれたんだろう。
椿さんは最期まで教えてくれなかった。
その代わり、私について印象に残っていることを何故か教えてくれた。

誰かが亡くなった時、望月さんはどうやってケアするの?
そうやって聞いたら何て答えたか覚えてる?

あったかいお湯を洗面器に入れて、身体を拭いて。
髪の毛を洗って、ドライヤーで乾かして髪を綺麗にとかして。
最期に着たいと教えてくれたお洋服があればそれを着ていただきます。
お化粧をして、その間ずっと話しかけてます。

私がそうやって答えたのが印象に残ったそうだ。

入院の時、いつも塗っていた口紅が今日もテーブルの上に置いてある。
椿さんの娘さんに声を掛ける。
もし良かったら、椿さんの口紅を一緒に塗りませんか?
娘さんが、椿さんに
「お母さん、望月さんでしょ?良かったね。お化粧してもらえて」
そうやって話しかけた後、私を見る。

母が言ってました。
死んだ後雑に扱われたら嫌だなって。どんな風にされるのかなって。望月さんって子ね、あったかいお湯で身体を拭くんだって。
死んでるんだから冷たい水でも良いとか思わないんだよ。きっとそんなこと思ったことないんだろうね。
亡くなった人のこと、生きてる人と同じように扱ってくれるんだよ。
だから、私。望月さんにお化粧してもらいたい。

椿さんが亡くなって、何年経っただろうか。
今でも私には恒例の朝の日課がある。
鏡の中の自分に、思いっきり可愛いと伝えること。
最高に愛しいって思いながら、お化粧をする。

鏡にうつる私の手は、ずっとずっと解けることのない椿さんの魔法が今日もかかってる。

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